玻璃の欠片A
清正→行長







「あっ、いや、頭下げんで下さいな!」

彌九郎が慌てて腰を上げ、手を振って制す。

「いや…話をぶり返してしまったから…」
「じゃあ、こうしましょ。お互いよそ見しとった訳ですさかい。おあいこっちゅう事で」

そう言って、悪企みをする様にニカっと笑った。
大して長い時間を過ごした訳ではないから、当然なのだが、今まで浮かべた表情とは全く異なる笑顔に、虎之助は心が跳ねる。


(あと、どんな表情を持っている?)


「―――…。そんなんしてましたやろか?」
「え?」

つい考えに耽ってしまった為に言葉を聞き逃してしまった。
そんな虎之助に、彌九郎は最初に見せた笑顔と同じ笑みで、もう一度言う。

「花の香り。そんなんしてましたやろか?」

実際には花の香りではなく、目の前の人物、彌九郎から香るものなのだが、何と無く恥ずかしく、伝えられずに誤魔化した。

「俺の勘違いだったようだ…」
「ふふ…なんや、素敵な勘違いどすなぁ」

虎之助が隠そうとした照れに、気付いたのかもしれない。
ふわりと柔らかい微笑みが、彌九郎の繊細な面に広がった。
自分だけに向けられた笑顔が、再び虎之助の心を波立たせる。
そして同時に、まるで子供扱いされているみたいな優しさが、やはり悔しくて仕方が無い。

(…あまり、歳は違わないはずなのに)

少し大人びた印象を受けるのは、如才ないやり取りを心得ているからだ。

(一つ二つ、違うくらいか?)

好奇心は、押さえられない。
気持ち、自分の存在を大人に見せるように背筋を伸ばし、虎之助は彌九郎を見つめた。

「家業、継いで間もないのか…?」

虎之助の質問に、キョトンと目を丸くする。

「稼業…あぁ。ウチは次男ですさかい。稼業は兄が継ぎますんや。まあ、一応、船は任されとりますが」
「船を…?」

秀吉への面通りだから、てっきり跡取りだと思っていた。
それと、船と聞いて驚く。
尾張に居た頃は船等あまり目にしなかったが、此処長浜では、荷の運搬、漁船等あまり大きな船ではないが、よく目にする。
その船に携わる者は皆、屈強そうな者ばかりで、彌九郎の様に色白く、華奢な人物はそう居ない。
船を任されて、まだ日が浅いのかもしれない。
そう考えたが、次の言葉に打ち消された。

「十六の頃からやから、もう五年になりますやろか」

(十六の頃から五年…?…二十一歳)

今の虎之助が十五、彌九郎は六歳上という事だ。

「…船で何処まで行くんだ?」

思っていたよりも随分年齢が上だった事に驚きつつも、話の流れがおかしくならない様に懸命に会話をする。
その間も彌九郎は笑みを絶やさず相手をした。

「主に長崎と堺を行き来しとります。まれに唐まで行く時もありますが…」

「虎之助、其処に居るか?」

襖の外から声が掛る。――この声は佐吉だ。
応えの妨げにならぬよう、彌九郎がそっと口をつぐむ。
間の悪い男だ。
もう少しだけ、彌九郎の声を聞いていたいと思っていた虎之助は、思わず襖を睨みつけた。

「あぁ」

話の腰を折る形になるのが気になったが、無視をするわけにはいかない。
多少なりとも険の色を含んだ返答に、襖を開けた佐吉が細い眉を顰めた。

「…何を怒っているのだ?宴席の支度を進めているから、早く来い――失礼、小西殿。お待たせ致しました。どうぞ、ご案内致します」
「おおきに…ほな」

奥を示す掌に、彌九郎が微かな吐息をついて立ち上がる。








間には既に秀吉や隆佐、秀長も居て、虎之助達が席に着くと、間も無く宴会が始まった。
彌九郎を見ると、秀吉とねねに挟まれて談笑している。
そうして見ていると、隣から声が掛った。

「そんなに見つめてると、穴が開きそうだね」
「!?…何の事だ…?」

隣を見ると、紀之介が笑って、チラリと彌九郎を見やる。

「ずっと見てるでしょ」

指摘され、途端に顔が熱くなり、それを悟られまいとうつ向いた。

「そんな事無い」
「大丈夫かな?随分飲まされてるみたいだけど」

紀之介の心配そうな声に、外していた視線を再び彌九郎に向ける。
秀吉とねねに促され、結構な早さで杯を重ねているようだ。
目元が赤みを帯て、色っぽく感じる。

(色っぽい…?俺は何を考えてるんだ?)

酔った人間の表情など、今まで興味なかったのに、彌九郎に感じる特別な感情に、何だか振り回されてばかりだ。

(くそっ!一体、何なんだ!)

胸が一杯で、目の前の膳も、中々喉に通らない。
ひょっとしたら病気かもしれないなんて、思わず考えてしまう虎之助の耳に、心配そうな声が聞こえた。

「うーん…ちょっと、お水用意してこようかな」

再び盃を傾けている彌九郎が気になるのか、紀之介が腰を浮かす。

「あ。持ってきたら、お二人のどちらかに渡してくれる?」

少し悪戯な笑みを浮かべる紀之介は、自分でも良く分からない心の中を見抜いているようで。

「…わかった」
「よろしく」

渋々頷く肩を叩かれ、虎之助は離席する気配に代わって彌九郎の様子を見遣ると、

「あ…」

ふらりと部屋を出る彌九郎の後ろ姿に気付いた。

(どうしようか…紀ぃ兄が戻るまで待つか?)

顔色まで見えなかったが、相当の量を呑んでいるはずだ。
倒れる事はなくても、ふらついた足元では、厠に落ちたりしてしまうかもしれない。

(いや、だからと言って、厠に行ったのかどうかも判らないし、そうだとしても、何もしてやれないけどっ!)

どうでもいいような心配とは思っても、気になりだしたら止まらない。

「――っ」

握りしめていた箸を置き、虎之助は立ち上がった。
そこに声が掛り、更に足に何かがまとわりつく。

「なんじゃあ、虎之助ぇ。何処行くんじゃぁ!」

もう既に出来上がった市松だ。

(こんな時に厄介な奴に捕まった…)

足を退こうとするが、市松は離そうとしない。

「離せ。厠へ行くんだ」
「お前、全然食っとらんなぁ。食ってもエエかぁ?」
「ああ、食って良いぞ。だから離せ」
「ワシの酒が飲めんのかぁ!」

会話が成り立たない。
酔っ払いの相手は大変だ。

「帰ったら飲むから、離せ」
「何処行くんじゃぁ?」

降り出しに戻る。
早く彌九郎の元に行きたいというのに、市松は離す気配もない。

「だから、厠へ行くんだ!」
「ワシの酒が飲めんのかぁ!」

絡んでくる市松に、そう気が長くない虎之助も、もうキレそうだ。
市松を引きずる勢いで足を退く。
負けじと市松は虎之助の足を引っ張る。

「離せ!」
「イヤじゃ!」
「もぅ。市松、何やってるの」

不意に市松の手が離れる。
今まで退いていた勢いで、よろめいたが、何とか体勢を持ち直す。
市松を見ると、水を取りに行った紀之介が戻って来ていて、市松の脇腹をくすぐっていた。

「うぎゃきゃ〜ふっふふ!くしゅぐったい!」
「はいはい。だったら絡まないの」
「わかったわかった!」

ひとしきり擽られて笑いころげた市松が涙目で降参し、紀之介が虎之助に水を渡す。

「すまない…」
「頑張ってね」

(何を頑張るというのだろうか?)

紀之介に助けられ、虎之助はやっと彌九郎を追い掛ける為に部屋を後にした。








背にした宴席の明かりが、足元にぼんやりと影を落とす。
長く伸びる左右の廊下には、虎之助のそれしか見当たらない。

「…どこだ?」

あの時追いかけることが出来ていたら、と絡んで来た市松を恨めしく思う。
そして。

「渡すだけだろ…?」

理由の解らない紀之介の声援を思い出し、素焼きの器を覗き込む。
指折り数えて片手程度の年じゃあるまいし、茶碗一つ手渡せぬなんて事があってたまるか。

(――子供扱いは、もう懲り懲りだ)

小姓みたいな遣いでなく、武人として早く主人の役に立ちたい。
今日ほど、この思いを強く感じた事は無いかもしれない。

(…きっと、多分あいつの所為だ)

彌九郎の、大人びた笑顔が瞼に浮かぶ。
今日一日で、何度その表情を心に描いただろう。

頬を撫でる夜風に、虎之助は微かに瞬いた。

「…早く渡そう」

なみなみと注がれた水は冷たそうで、そっと零れぬよう両手で包む。





先の風に乗った香りに、彌九郎から香るあの花の様な香りが混じっていたような気がする。

(此方か…?)

庭が見渡せる廊下の方へ虎之助は向かった。
角を曲がると、縁側で足をぶらぶらさせて座っている彌九郎の姿が目に入る。
足音を立てない様に歩いて来た為か、彌九郎は虎之助に気付かずに、庭を眺めていた。
その目元は、あの時見たのと同じく赤みを帯ていて、目は少し眠たげに細められている。
その姿に見入ってしまい、声が掛けられない。

(何故、コイツを前にすると…)

ただ声を掛け、水を渡すだけなのに、それが出来ない。
立ちすくんでいると、彌九郎の視線が虎之助をとらえた。

「っ…。なんや、虎之助はんでしたか」

一瞬見せた鋭い視線を瞬きをして隠し、また柔らかな笑みを浮かべる。

「(何だ?今のは?)あ…水を持ってきた」

彌九郎の側に寄り、水を渡した。

両手で椀を受取り、それを眺め、虎之助を見上げて、微笑む。

「おおきに」

微笑みに吸い込まれそうになり、必死に虎之助は自分を止めた。

(俺は今、何をしようとした?)

冷や汗が背を伝う。
心が欲していたモノの意味が、ようやく頭に到達した気がする。

(馬鹿な!どう見ても、男じゃないか!)

うろたえる虎之助の耳に、笑みを含んだ彌九郎の声が届く。

「…あ〜…もぉ、あかんわ」

コトリ、と椀が置かれ、片膝を立てた彌九郎が瞳を細めた。

「――なぁ、虎之助はん。何でそないにじぃっと見よるん?宴席も、その前も…ずっと見てたやんなぁ…?」
「――っ」

真っ向からの問いかけに、びくりと肩が跳ねる。

半ば自覚なく、半ば意識的に。
目の前にある綺麗な物を、こっそり覗いていた事を指摘され、まるで罪を暴かれたような気がして、虎之助は顔を赤らめた。

「み…、見てない」
「下手な嘘は、やめなはれ」

外方を向いた虎之助を、彌九郎の言葉が追い掛ける。
詰めるような雰囲気を感じ取り、虎之助は汗を掻き始めた掌を強く握り締めた。

「――…すまん。気を悪くさせた…」

彌九郎から感じる春の陽のような空気が、ゆらりと揺らぐ。

「…何なん?俺に惚れたん?」

嘲笑めいた笑みが、彌九郎の口端に浮かんだ。

「…惚れ…た?」

言葉にされ、言葉にして、愕然とした。
そんな虎之助を見て、彌九郎がおかしそうに喉を鳴らして笑う。

「なんや。まだ、よう解っとらんのかいな。ククっ…初恋っちゅう事?」

言葉に虎之助が肩を震わせた。
その姿が更に彌九郎を笑いに誘い、膝を叩いて笑い始める。

―――初恋?

確かに今まで感じた事の無い、感情を抱いた。
この気持ちを何と言い表せれば良いのか、未だよく解らなかったが、目の前の彌九郎の言う通りなのだろう。と、どこかで納得する。

しかし、この彌九郎の変わり様に虎之助は戸惑っていた。
今まで優しく、柔らかな雰囲気だったのが、からかいを含み、挑発的な雰囲気をまとっている。

「な、んで…」

背けていた視線を戸惑い含めて戻すと、それに気が付いた彌九郎が笑いをとめた。

「あ?笑い過ぎやった?そないな事で怒ったらアカンで。ホンマ、餓鬼やなぁ」

立ちつくす虎之助に、胡座を組み換えた彌九郎が呟く。
軽口めいた口調が、虎之助の混乱を深くさせた。

「どうして…」

額を押さえ、必死に先程までの彌九郎を思い出そうとするのに、揶揄するような態度が邪魔をする。

(同じ人物なのか…っ!?)

酒に酔った戯れ事というよりも、処世術の面を脱ぎ捨てた感じだ。

(でも、なぜ今…っ!)

彌九郎が、再び耐え切れなかった笑いを吹き出す。

「くはっ!オモロイ顔しはるなぁ?…どうして?って、何に対しての疑問か分からへんけど、簡単に一個だけ教えたる」
「え…――」
「男に好かれても、楽しないねん」
「――っ!」

真顔で、吐き捨てるように口にされた台詞に、虎之助の全身が総毛立つ。
いくら自覚がなかったとは言え、あまりの言われように、悲しさと怒りが混ざり合う。
溢れ出した感情に、虎之助が拳を握った。

「この…っ!」

掴みかかろうと、衿に手を伸ばす――が、その腕は彌九郎に難無く捕らえられ、するりと懐に入り込まれたその距離は、鼻先が触れ合いそうな近さで。

「…俺の好みは、可愛らしい女の子ぉと、可愛らしいイキモノや。覚えとき」
「――…っ!!」

とん、と押され、思わず多々良を踏む虎之助の脇を、彌九郎が何事も無かったように擦り抜ける。

優しかった彌九郎が偽りだったのが悲しいのか、自分の無自覚だった初恋が破れたのが悲しいのか、虎之助には今でもよく分からない。
ただ、挑発的な視線を寄越して来た、あの彌九郎の吐息を感じた唇と、腕の中に残る香りが、虎之助の心を再び掻き乱していた。

「…何なんだっ…!」

胸が痛い。 虎之助の呟きが、夜風に消えた。










「…――おい!起きろ。虎之助!」

体が揺すられ、意識が覚醒する。
昨晩の彌九郎の急変した態度と己の感情、吐息と香りが、体の中で混ざり合ってなかなか寝付けなかったのが、いつの間にか寝てしまっていたらしい。

「おい!虎之助!」
「…起きてる」

目を開けると、もう既に身支度を整え、不機嫌そうな顔の佐吉が目を据えて、此方を見ていた。

「起きてる、ではない。もう朝餉も終わっている」
「っ…」

飛び起きると、皆の布団は片付けてあり、完全に寝坊したらしい。

「秀吉様からの言付けだ。昨日の客人、小西殿達の相手を頼む、との事だ」

それだけ言うと、佐吉は立ち上がり、部屋を出ようと襖に手を掛けた。

小西―――今一番会いたく無い人物だ。

「何でっ!俺が!」

佐吉が、呆れた様な視線を寄越し、溜め息を吐く。

「寝坊した上に文句を言うか。秀吉様からの命だ。ただ、小西殿達に不便が無いように付いているだけの事」

難しい仕事じゃないだろ。と目が語り、佐吉は出て行った。

秀吉の命では逆らえる訳もない。
しかし、よりによって自分を指名してこなくても、と心の中で恨み事を言う。
何も一日中、顔を合わせている訳ではない。
隆佐も一緒なら、昨日の様な事にはならないだろう。

しかし…彌九郎が隆佐に話していたら、どうしよう…?

再び自分の中に閉じ篭ってしまいそうになるのを、立ち上がる事で踏ん切りをつける。

(今更悩んだところで仕方が無い)

「…あいつらに餌やらないとな…」

虎之助は縁の下に住みついてしまった仔猫五匹の世話を隠れて行っていた。
朝餉は終わってしまったらしいが、何か残ってるかもしれない。
意識を切り替えて、虎之助は布団を片付け、厨房へ向かった。






(やはり、誰も居ないわけがなかったか…)

女が三人集まれば、姦しいという言葉になるとはよく言ったものだ。
特有の賑わいを感じさせる部屋に近づくにつれ、虎之助はほんの少し肩を落とした。
恐らく、腹を満たすことに苦労は無いだろうが、説経も漏れなく付いてくるに違いない。

(せめて、ねね様がご不在であれば…)

実の母のような仕置きを思い、虎之助は厨を隔てる戸に手を掛けた――その時。

「こら!この寝坊助!今頃起きたのっ!?」
「――っ!!」

背後から掛けられた声に振り返れば、仁王立ちで睨む女性が居た。

「ねね様…」

バツの悪い顔で応える虎之助に、ねねが呆れたような溜め息をつく。

「もう…虎之助の分、市松があらかた食べちゃって、大変だったんだから」

ほら、と隅に置かれた膳を指したねねは、拵えたいくつかの握り飯を手渡して唇を尖らせる。

「全く…困った子だね。お前が起きないと、チビ達が可哀相でしょ?」
「え…っ」

思わぬ台詞に背を正した虎之助に、ねねは椀に注いだ菜入りの粥を差し出し、悪戯な笑みを浮かべてみせた。

「あたしを誰だと思ってるの?」

知らないことが有る訳無い。
そう語るねねに、虎之助はただただ苦笑するばかりだった。






食事を終え、ねねに「今日も一日頑張る事!」と背中を押され、用意して貰った粥を持って、猫達が待つ邸奥近くの庭に向かう。
その途中で、部屋から出てくる大きな人影と出会った。
ぶつからない様に椀を持ち直し、足を止める。

「?…あ、え〜…虎之助はんでしたかな?」

部屋から出てきた人物は隆佐で、何やら困った様な顔をしている。
虎之助は出てきた人物が彌九郎でなかった事に安堵した。

「…はい。何かありましたか?」
「彌九郎、見まへんでしたやろか?」

彌九郎――その名を聞いて、虎之助の鼓動が跳ね上がる。

(クソっ…名前を聞いただけで、この様かっ!)

姿を見て、顔を合わせてしまったら、一体自分はどうなってしまうのか。

「…いえ、見てないです…」

それだけ言うのが精一杯だった。

「そうですか…何処、ほっつき歩いてるんや…」

虎之助の返答に、隆佐が天を仰ぐ。
元より困っている人を放って置けない虎之助だ。
会いたくなくて、でも会いたい様な人物、彌九郎の姿を思い描く。

「俺が探してきます」

隆佐は目を瞬かせると、彌九郎とは全く似ていない笑顔を浮かべた。

「そうどすか。助かりますわ」
「部屋でお待ち下さい」
「ほな、そうさせてもらいますわ」

隆佐は小さく頭を下げると、出てきた部屋へと戻っていった。
完全に障子が閉まると、虎之助は肺に溜っていた空気を全て吐き出す様な溜め息を吐く。

(これも、仕事だ)

そう言い聞かせて、一先ず猫達の餌だけでも済ませなければ、と廊下を速足で歩いていった。






家人ですら、用が無ければ入り込むことのない屋敷の裏手に、その秘密の場所はある。

「あいつら、ちゃんと居るかな…」

やんちゃ盛りの仔猫達は、最近遊び場を広げている様子で、この間等は、虎之助の背丈とそう変わらない椿の木に登って降りられなくなっていた事もあった。

(…まぁ、腹が減ってるうちは、団子みたいにくっついて寝てるか…)

庇護欲を感じさせる縞や白黒の毛玉に、口元が綻ぶ。
目的の濡れ縁まで差し掛かり、虎之助は歩調を緩めた。

「飯だぞー」

いつもなら、この呼び掛けに全員寄ってくるのだが、全く来る気配がない。
一、二匹来ない事なら過去あったが、全匹来ないとは、何かあったのだろうか。

虎之助は濡れ縁から庭に降り、辺りを見渡すと―――花の見頃を過ぎた梅の木の下で、会いたくなくて、会いたい様な、探している人物、彌九郎を見つけた。
仰向けに横たわる姿を見て、虎之助は息が詰まる。
心の蔵は、これ以上速く動く事は無いのではないか、という位脈打ち、持っていた椀を取り落としそうになる。

(何故、此処に居るんだ?)

彌九郎は眠っているらしく、虎之助が来た事に気付いていないようだ。
無意識に音を発てぬ様に近付き、そして気が付いた。
彌九郎の回りに仔猫達が丸くなって寝ている。
黒灰の虎猫二匹は彌九郎の首に寄り添い、白猫と黒猫は小さく空いている脇に埋まる様に、足先が白い黒灰の虎猫は腹の上に組まれた手の辺りで丸くなっていた。
すぐ近くまで来ても、彌九郎は目を醒ます気配もなく、目が伏せられている。
手には幾筋かのひっかき傷があり、着物は所々汚れていた。

(猫と遊んでいたのか…)

ふと、昨日言われた言葉がよぎる。

『…俺の好みは、可愛らしい女の子ぉと、可愛らしいイキモノや。覚えとき』

仔猫達は彌九郎の好みに一致したという事だ。
虎之助は再び彌九郎の顔を見る。
気付かぬ内に恋をして、彌九郎からは酷く拒絶されたというのに、胸の高鳴りが止まない。

(あんな言葉を、平気な顔で口にする嫌な奴なのに…)

瞳と唇を閉ざしているだけで、昨晩の彌九郎の姿が夢だった気になる。
虎之助の火照った頬を、春の爽やかな風が撫で過ぎ、さらりと揺れた彌九郎の髪が、仔猫の鼻先を擽った。

「…ニャォ…」
「!?」

むずがる様に身じろいだ仔猫に、虎之助は彌九郎が目を覚ますのでは、と辺りを見回す。
しかし、当然どこにも隠れられそうな場所はなく。

(くそ…っ!)

焦る気持ちに、虎之助は先程の隆佐の言葉を思い出して、観念したように息を潜める――が。

「……?」

仔猫の動きなど、気に留める程の事ではなかったのか、それともただ眠りが深かったのか。
寝息をたてて仔猫に擦り寄るのが、何だか少し大きな猫みたいで、虎之助は思わず口元を綻ばせた。

(もう少し、寝かせるか…)

旅の初日、しかも秀吉と同席してあれ程の酒を口にしたのなら、疲れも出るに決まっている。
隆佐の口ぶりは、彌九郎の姿が見当たらないからごく単純に心配だ、と言う感じであり、急いで連れ戻す必要はない様に見えた。

(こいつらがいるなら、起きてもまだ、ここからは動かないだろうし)

椀から香る食べ物の匂いに気付いたのか、白足袋の虎猫が彌九郎の腹の上でヒクヒクと小さな鼻を動かした。

「…仲良く食えよ?」

起こさぬよう囁き、梅の根本に椀を置く。
自然と彌九郎に被さるような体勢となった事に、虎之助の鼓動が再び弾けそうになる。
恐る恐る様子を窺った彌九郎の髪が、木漏れ日にキラキラと輝く。
上質な絹糸のようなそれに、虎之助の指が触れた。
さらり、と指の間をすり抜ける柔らかな髪に、とっさに手を引っ込め、触れた手を見つめる。

柔らかい―――此処で丸くなって眠っている、仔猫の毛の様な柔らかさだ。

自分の髪とは全然違う。
もう一度触れたくなって、再び彌九郎の髪に手を伸ばした。
柔らかな髪を指に絡める。
顔を覗き込むが、まだ目を覚ます気配はない。
伏せられた瞼の先の長い睫毛や、薄く桃色に色付く唇が虎之助の心を波立たせる。
悔しいけれど、やはりこの人が好きなのだ。
どうしても、惹かれてしまう。

(これが、人を好きになるという事か…)

優しく凪いだり、荒々しく猛ったり。
自分の心の中に、もう一つの近江の海があるようだ。
出会って一昼夜で見つけた新しい感情は、虎之助と言う名の小舟を翻弄する。
耳や目に残る言葉や眼差しは心を怯えさせ、ずっとこのまま眠っていてくれたら、同じ時間だけ触れていられるのに…と、思わず願ってしまいそうになる。

(胸が痛い…)

壊れ物のように触れていた髪に、少し深く指を潜らせると、飴細工の艶を思わせる彌九郎の唇から、小さく吐息が漏れた。

「…くすぐったい…」
「――っ!」

突然の応えに慌てて飛びすさる虎之助を、彌九郎が可笑しそうに眺めやる。
むくりと起き上がった身体から、縞の仔猫がころりと転がり落ちた。

「…こいつら、お前の猫なん…?」

彌九郎の膝に転がり落ちた仔猫が仰向けになってもがくのを、腹を擽る様に撫で、自身の顔の前に抱え上げる。

「…餌をやってるだけだ」

突然の事に、虎之助は彌九郎を見る事が出来ない。
また、昨晩の瞳を向けられるのが怖い。

「そんなん。飼っとるのと同じやん」

「なぁ」と抱えている仔猫に向かって同意を得る様に話し掛ける。
彌九郎の回りにいた仔猫達は、温もりが消えた事で目を覚まし、虎之助が持ってきた粥の元に寄り始めた。

「お前も食わなな」

抱えた仔猫と鼻を合わせると、解放してやる。
手から離れた仔猫は、他の仔猫達に遅れをとるまいと、椀に向かって駆けよる。
その姿を彌九郎は優しい眼差しで眺め、微笑んだ。
虎之助は無意識に、優しい眼差しを受ける仔猫達が羨ましいと感じる。

(無いものねだりじゃないか…)

馬鹿な事と思いつつも、小さくて可愛らしいと云うだけで、彌九郎の態度がこれほどにも違うなら、猫になりたいとさえ思う自分がいる。
あの目で、唇で、指で優しくされたら、一体どんな風になってしまうのか――虎之助には想像が追い付かない。

(流石に、猫みたいに喉は鳴らないしな…)

くだらない想像のまま、随分出て来た喉仏に手を添える。
黙り込んで首を傾げる虎之助の前を、彌九郎の細い指が、ひらりと蝶のように舞った。

「シワシワや」
「!?」

ひたり、と少し冷えた白い蝶が、虎之助の眉間に留まる。
突然の出来事に、虎之助は目を見開いたまま動けなくなった。

「な…っ!?」

(普通、嫌っている人間に自分から触れにくるか!?)

そのまま眉間を軽く押され、上を向く形になり、彌九郎が歳より幼い笑みを浮かべる。

「若いうちから眉間に皺寄せとると、跡が残んで」
「っ…そんな事、気にしない!」

ムッとして、眉間に置かれた手を捕えようとすると、ヒラリと逃げられた。
本当に蝶のようだ。

「怒りっぽい人や思われ、怖がられんで」
「なめられるより、断然良い」

武士が相手になめられては、たまったものじゃない。
彌九郎の様な商人と、自分は違う。

「そか。要らん世話っちゅう事か」

彌九郎は虎之助に興味を失った様に、餌を食べ終え、折り重なるように、じゃれ遊ぶ仔猫達に視線を移した。
彌九郎と話をしていると、喧嘩腰になってしまうが、興味の対象から外されると、此方を向かせたくなる。

「…猫…好きなら、連れて行くか?」

虎之助の問掛けに、ゆっくりと彌九郎が振り返り、遠くを見る様に微笑んだ。

「今はのんびりできとるけど、明日からは猫と遊んどる余裕もあらへん。それに…仔猫に長旅は可哀想やろ」

長旅?京かもしくは堺に行くのが長旅だろうか?
彌九郎は両手を天に上げて伸びをすると、立ち上がり、着物を払う。
そのまま去って行こうとする彌九郎の手首をとっさに捕えた。

(捕まえられた!)

しかし、無意識に手を捕えてしまった為、どうしようか虎之助はうろたえる。

「なんや?一人は嫌なん?」

意外にも、頭上から掛けられた彌九郎の声は柔らかい。
拒絶の無い空気に掴んだ手を離す機会を失う形になり、虎之助は突然振り払われない事を祈りながら、辿るように彌九郎の顔へ視線を這わせた。

「別に、そう言うわけじゃ――小西殿が、あんたの姿が見えないって心配していたから… 」

捕まえたのは、隆佐の為――しどろもどろになりながら、虎之助が口を開くのを、彌九郎は唇を尖らせて見遣る。

「親父殿が?あー…どうせ腰に手ぇ当てて『あの阿呆、こないな大事な時に、何処ほっつき歩いとるんや!』とか言うてんねやろ?」

少し声を低め、隆佐の口真似をしてみせる彌九郎に、虎之助は思わず苦笑を漏らした。

「そんな事は言われなかったぞ」
「言いたい事は、同んなしや。何やねん。子供扱いしよって…」

ぷくりと軽く頬を膨らます彌九郎はとても幼くて、虎之助は年上だということを忘れそうになる。
ふと口元が緩んだのに、彌九郎が気付き片眉を上げた。

「こうなったら、叱られるまで遊んだる。おい!どっか連れてけ!」









続き。   

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清正、行長にメロメロっス(笑)

20070225   佐々木健&司岐望