玻璃の欠片B
清正→行長






どこか連れていけ。と言うわりには、彌九郎は勝手に一人で先に進んで行く。
両脇に建ち並ぶ店々を見ては、聞き取れない程の声で何やら呟いては歩を進めていた。
時折足を止めては店主と話をしている。
虎之助には他愛ない話に聞こえるが、彌九郎も店主も楽しそうだ。

「知り合いなのか?」

再び歩き出した彌九郎に先の店主の事を聞く。

「いや、今日の今さっき会ったんやで?」
「そうなのか…」

彌九郎が言うには、商人は顔が広いに超した事はなく、あの会話も情報交換と売り込みを兼ねた物だったらしい。
自分達に利益をもたらせ、相手にも損をさせない。
その為にも、情報は大切なものだった。

「昨日はこっちには来れへんかったからなぁ。ホンマ、秀吉様は大きな町を作らはったなぁ」

敬愛する秀吉を褒められ、虎之助は自分の事の様に嬉しく感じる。

いまだこの長浜の地元民には秀吉は恐れられている。
恐怖で支配する土地は長続きはしない。
早く皆が本当の秀吉を知ってもらいたいと思った。

虎之助が考えに没頭していると、突然目の前に団子が付き出される。

「!?」
「なに、ボへ〜っとしてんねん。これ食う?」
「あ、ああ」
「さっき寝てもうたら、腹が減って仕方ないわ」

彌九郎の手を見ると、団子が五本乗っていて、虎之助に団子を渡すと、もぐもぐと食べ始めた。
飲み込む時の喉の動きに、目が捕えられる。

その白い喉元に歯を立てたら、甘そうだと―――

「団子は嫌いやった?」

団子を持ったまま止まっている虎之助を振り返る彌九郎に、虎之助の肩が揺れる。

「い、いや。嫌いじゃない」

(俺は、何を…?)

虎之助はまた新たに芽生えた感情――欲望に身を震わせた。
身体の中心が、じんと熱い。
こんな高い陽の下での有り得ない自分の変化に、動揺と羞恥が溢れ出す。

「――っ」

男ならば覚えのある感覚を気取られまいと、虎之助は勢い良く菓子に食らいついた。

「…大きぃ口やなぁ」

行儀の善し悪しも無い食べ方に、立ち止まった彌九郎が、呆気に取られた様子で串を食む。
三つ列んだ団子が一瞬にして消えたのが、殊の外驚いた様子だ。
そして、ほんの少し逡巡した仕草の後、手に残るそれをずいと突き出す。

「足りひんのやったら、もぅ一本食う?」
「!」

半歩程近付いて虎之助の口元に伸ばされた団子は、受け取れと言うよりも、食らい付けと言う方が正しいように思われた。

(別に、腹が減ってる訳じゃ…って、だから、なんで側に来るんだっ!)

はっきりと自覚を持って欲情してしまった今、無防備な彌九郎の所作はひどく眩しい。
そして、もし、次にあの香りなぞを嗅いだら、自分は一体どうなってしまうのか分からないとも思う。

しかし――

(…きっと、ここで遠慮をしたら、また興味無いと云う顔をされるのだろう…)

踵を返されたあの瞬間、心に広がった言い様の無い寂しさは、今まで感じた事の無いものだった。

「なぁ、食うの?食わへんの?」

問い掛けの中に、微かな苛立ちが混じる。

「――っ、食う」

慌てて歯を立てる姿を眺め、彌九郎が小さく肩を揺らした。

「ふ…っ。なんや、大きい犬コロに懐かれたみたいやなぁ。――あ。全部はやらへんで?」

団子が虎之助の口に移ったのを見計らって、悪戯な笑みを残したまま彌九郎が串を引く。

「残りは俺のや」
「な…っ!」

余程自分の破れた恋心に塩を塗り込みたいのか、それともただ単に根が楽天家なのか。
家族や、余程親しい仲でないとやらないような事――他人が途中まで口を付けた物に舌鼓を打つ――を、平気な顔でしでかしてくれた彌九郎に、虎之助の頬が熱くなる。

(こいつ…っ!これが無自覚なら、何て質が悪いんだっ!)

「あー…旨かった。ほな、また散策開始!」

満足そうに腹を撫でる姿には、欠片も悪意は見当たらない。
それどころか、昨夜の張り詰めた緊張感も窺えないのが、虎之助の想いが彌九郎にとって驚く事でも考える事でもない…全くどうでも良い事だった、と言われている様で、ひどく切ない。

(手を伸ばせば、捕まえられる距離なのに…)

あれ程怖がっていたのに、今は嫌われる事すらないと言うのが、こんなにも哀しい。

どうして、あの時出会ってしまったのか――屋敷で会ったのが初めてだったなら、こんなにも興味を抱かなかったかもしれないのに。

すいすいと泳ぐように歩く彌九郎の背に、考えても仕方の無い言葉を投げたくなる。

「お、ん?今、なんや珍しもんが…うわ、やっぱり!何でこないな所で、桃珊瑚の飾りなん売って――っ!」

気になった露店を今一度見ようとしたのか、無造作に振り返った彌九郎が足元をふらつかせる。

「おい!」

思わず引き寄せた虎之助の心臓が、既視感と驚きと愛しさに激しく高鳴る。
そのままの勢いで彌九郎を抱き締めた。
すぐ側から薫る、あの甘い香りが虎之助の鼻孔を擽る。

(このまま…)

―――彌九郎を腕の中に閉じ込めておきたい。

そんな想いが虎之助を支配すると同時に、腕の中の彌九郎が虎之助の胸を押す。

「っ…助けてもろうたんは礼を言うけど、抱き締めんでもエエやろっ」

眉をしかめて、彌九郎が虎之助を睨みつけた。

「アンタがふらふらしてるのが、悪いんだろ!」

昨夜の様に馬鹿にされた態度をとられたくなくて、虎之助も言い返す。
それに対し、彌九郎は舌打ちすると、

「こない往来で、ケンカしとったら、みっともないわ」

と踵を返して、歩きだした。

(クソっ…)

彌九郎を捕えた掌に汗が滲み、身体に熱が渦巻き、汗ばんだ手を握りしめる。
彌九郎を見ると、店を見る事なく、真っ直ぐ歩いていた。
その背中を大股で歩き、追っていく。







暫く付かず離れず歩いて行くと、琵琶湖へと出た。
琵琶湖周辺には、蕾を付け、開花を待つ桜の木が並び、余程此処を気に入っているのか、未だ残る数羽の渡り鳥が水面を滑る様に円を描き回っている。
渡り鳥が通り、波立つ水面が、太陽の光を反射させキラキラと光を放っていた。

「綺麗やなぁ…」

いつしか歩みを止めていた彌九郎から、作り物では無い、心からの感嘆の言葉が零れる。
さっきまであれだけ苛立っていたのが、嘘みたいな変わりようだ。
彌九郎の背を呆れ顔で見つめながら、虎之助は昔聞いた秀吉の言葉を思い出していた。


――嬉しかったら笑い、悲しかったら泣く。この当たり前の事が、ちゃんと出来る人間は少なくて、だから皆、それが出来る人に惚れ、心を奪われる…――


人心を掴む為の話だったはずなのに、目の前に佇む青年との出会いにも当て嵌まるから、何だか笑えてくる。

(でも、素直な時と、そうじゃない時の差が激しいのは考えものか…)

振り回されっぱなしの一昼夜を思い、虎之助の唇から溜め息が漏れる。
それに気付いたのか、腰に手を当てた彌九郎が、小さく唇を尖らせ振り返った。

「こら。何シケた顔しとんねん。見てみぃ、この絶景!」

見飽きている、とは口が裂けても言えないが、見馴れた風景に今更何を思えというのか。

「ほら」

彌九郎の手招きに、ほんの少し足を踏み出す。

「――…」

ゆっくりと視線を上げた先に、虎之助は目を奪われ、立ち止まった。

(あぁ……)

湖面いっぱいに広がる、まるで玻璃を投げ込んだような煌めき。
そこに在るだけで、眩しくて見蕩れてしまう――胸に迫るこの感覚は、彌九郎に初めて会った時に似ている。

「なぁ。あの仲良う並んで泳ぐ白いの、小鵠やろか?」

肩越しに振り返る彌九郎の髪を、湖畔からの風が巻き上げる。

「…あぁ」

目を眇め、短く答える虎之助に、彌九郎は微かな吐息をついて呟いた。

「ほんま、ここはえぇ所やな…」

その言葉は、この地を治める者の下で働く虎之助にとって、最大の賛辞と言っても良かった。
嬉しさが広がるのを、彌九郎の背後で噛み締める。

「――今の仕事が終わったら、来れば良い」
「…せやな」

溜め息の様に彌九郎が呟く。
後ろからで、はっきりとした表情は読み取れないが、彌九郎の目は湖畔ではなく、遥か遠くを見ている様に思え、昨日の秀吉と隆佐が会話していた時の彌九郎を思い出させた。

(何か、あるのだろうか…)

聞けば彌九郎は答えてくれるかもしれないが、何故か聞くのが怖い様な気がする。
交易の為に忙しいのであろう。と虎之助は無理矢理自分を納得させた。

「…暫くは、この地に居ると思う」

言った途端、何を言ってるんだ。と口を塞ぐ。
そんな虎之助の言葉に彌九郎が振り返る。
その目には先程とは、うって変わって笑みがあがっていた。

「なんや。そん時もアンタと此処に来いってか?」
「っ…そんな意味じゃ!」

自分の言ってしまった言葉と、彌九郎のからかう様な言葉に虎之助はうろたえ、顔に血が上り、それを見られないようにうつ向く。

「ふふっ…どないしたん?顔、真っ赤やで。虎之助はん」

うつ向く虎之助を、彌九郎が少し背を屈めて覗き込んでくる。
すぐ目の前にある彌九郎の楽しそうな顔に、心臓が跳ね上がり、眩暈がして――体が後ろへと倒れていった。

「なっ!ちょぉっ!」

倒れていく虎之助の体を支えようと手を伸ばし腕を捕えたが支えきれずに、彌九郎も虎之助に覆い被さる様に倒れた。

「…あっつぅ…うぎゃ!潰してもうた!」

慌てて虎之助の上から飛び退く。

「大丈夫か?…お〜い?」

声を掛けるが、虎之助は仰向けのまま、放心状態で。

「頭打った…んかな?」

心配になり覗き込むと、見開かれていた目が漸く瞬きをする。
虎之助が無事だった事に、彌九郎が安堵の溜め息を吐いた。

「なんや、も〜…驚かさんといてぇな」

むくりと起き上がる虎之助を眺めて、彌九郎がおかしそうに笑いだす。

「あはははっ…もう、アカン!」

笑いだした彌九郎に、からかわれたのだと感じた虎之助は、彌九郎を睨みつけ、

「アンタ、からかっ…」
「ちゃうちゃう。からかってへんって!」

目尻に涙を浮かべて笑い続ける彌九郎に、また顔が赤くなる。

「ははっ!可愛らしいとこ、あるやん」
「可愛…っ!」

可愛らしいなど、生まれてこのかた言われた試しがない。
言葉が続かず、口をパクパクする虎之助に、笑みを浮かべたまま彌九郎が顔を近付けた。

「ギリギリでおまけや」
「な――…」

何が、と問おうとした唇に、柔らかな物が押し付けられる。
それはまるで、昼寝をする自分の顔をよじ登った、あのやんちゃな仔猫達の肉球のような柔らかさで。

「…――え」

焦点の合わなくなっていた彌九郎の顔が、つい、と鼻先を掠めて離れるのを見送って、虎之助は初めて何が起こっていたのかを理解することが出来た。

「う、わ…っ!?」

(触れて…くっついて…っ!!)

一瞬にして赤面したのが解る位、顔が耳まで熱い。
認識した途端、心臓が胸を破って飛び出そうな程鳴り響く。

「おいっ!」

あまりの動揺に、虎之助は触れ合っていた唇を掌で隠すと、平然と座り込む彌九郎を睨みつけた。

「あんた、今…っ!?」
「ぷ…っ、隠したかて、今更やん。何?あー…ひょっとして、また、コレも俺が初めてやったん?」

ちょん、と自分の唇を示し悪戯な笑みを浮かべる彌九郎が、ほんの少し肩を竦める。
その笑顔に、虎之助の心臓は煽られたように早鐘を打つ。

「別に、初めてなんかじゃ…!」
「ふぅん…俺は初めてやったけど?女の子以外に、可愛らし思うて口付けするんは」
「!!」

裾を払い立ち上がる彌九郎の表情が、太陽の影になって読めなくなる。
のけ反るように見上げた虎之助に、彌九郎が静かに口を開いた。

「なぁ、虎之助はん。も一度此処に来たいて思うてた俺の事、心の片隅にでも覚えておいておくれやす」

穏やかな口調で願う些細な言葉が、虎之助の心を締め付ける。
二度と会えないかも、と云う不安を消し去るように、虎之助は小さく舌打ちした。

「…こんな色んな事があって、忘れるわけないだろ…っ」

頭を抱え、唸るように応える。
顔を上げない虎之助に、彌九郎は微かに口元を綻ばせた。

「おおきに…」






何故あのような事を言ったのか、問う事も出来ずに、元来た道を引き返して屋敷に戻る。
それからも、特に彌九郎と話す機会もなく、よく喋り、表情をころころと変える彌九郎は其処には居らず。
最初の印象――物静かで穏やかな表情を浮かべ皆と接していた。

今となって、その姿は酷く違和感を覚える。
またあの悪戯が成功した子供の様な笑顔が見たいと思った。








―――眠れない…。

横になったものの、目が冴えてしまい、眠りに着く事が出来ずに、虎之助は寝返りを繰り返す。
目を閉じれば、昼間の彌九郎の様々な表情が瞼に焼き付いたかの様に蘇り、一瞬だけ触れただけの唇の感触が唇に熱を呼び、身体中が熱くなる様だった。



暫くそんな時間を凄して、暗闇を見続ける目に、薄い光が入りこむ。
夜が白み、夜番を終えた佐吉が戻って来たのだった。
襖が開いた事により、外が俄かに騒がしい事が解る。

「何かあったのか?」

全員が寝静まっていると思い込んでいた佐吉は、小さな声で虎之助が問掛けた事に、驚いた様だった。

「起きていたのか?」
「寝着けなかっただけだ。それより、外が騒がしい気がするんだが…」

佐吉は閉めた襖の外に少し気をやると、ああ、と頷く。

「小西殿が発つらしい」
「えっ?」

虎之助は慌てて身を起こした。

―――こんな早い時間に?

正確に小西親子がいつまで此処にとどまるのかは知らなかった。
長くは滞在しないのだろう。とは思っていたが、今日、しかもこんな時間に発つとは、思ってもみなかった。

虎之助の様子をいぶかしげに佐吉が見遣る。

「何かあったのか?」

佐吉の質問に答える事なく、虎之助は布団を撥ね退けると部屋を飛び出した。

「…何なのだ?おかしな奴だな」

虎之助の行動に驚き、首を傾げて虎之助が開け放っていった襖を閉める。
起床時間まで僅かに睡眠を取ろうと、佐吉は横になった。






まだ薄暗い空が、端の方からじりじりと追い立てられて行く。
それは、今、手を伸ばさないと二度と届かないような焦燥感にとても似ていて、まるで自分の気持ちのようだと虎之助の心がざわりと騒ぐ。
草履を引っつかみ、転がるように厩に抜ける近道を目指す。

胸が苦しい。
一つ角を曲がるたびに、もう出立してしまったんじゃないかと言う不安が、虎之助の真ん中をぎゅうぎゅうと締め付ける。

「まだ居てくれ…っ」

祈るような気持ちで最後の角を曲がり切った虎之助の目に、穏やかな空五倍子色がゆらりと揺れた。

「彌九郎っ!」

胸につかえて、中々口に出来なかった一つの言葉を、虎之助は届きそうで届かない手の代わりに投げ掛ける。
その声に、馬の手綱に視線を落としていた青年が、驚いたように振り返った。

「――え…は?え?虎之助はん?」

まだ寒い春先の空気に、彌九郎の唇から零れた吐息が白くたなびく。
肩で息をつきながら目の前まで歩み寄ると、もう一度見たかったと思っていた悪戯な笑みが彌九郎の顔いっぱいに広がった。

「ぷ…っ、なんやねん。その格好」

彌九郎の言葉に自分の姿を見る為、視線を下に下げる。

夜着にしている小袖は、眠れなかったにしろ何度も繰り返した寝返りと、此処まで脇目も振らずに走ってきたお陰で、殆んど脱げ掛け、上は母衣の様になっていて―――

「褌チラかいな!」

彌九郎が笑いを噛み締めながら、裏手で馬にツッコミを入れる。

「っ…褌チラって言うな!」

衿を引っ掴み、慌てて直そうとするが、慌てる為に上手く直す事が出来ない。
もたつく虎之助に、笑みを浮かべながら彌九郎が手を貸す。
前を合わせ、帯を結び直して、衿を整えた。

「これでよし!…ホンマ可愛らしいなぁ」

仕上げとばかりに、ポンっと胸を叩かれる。
まるで弟の様な扱いだ。

対等でいたい。

そう思うのに、空回りばかりしている自分が歯痒い。

「彌九郎!」
「ん?」

身長はそう変わらないのに、少し首を傾げ見上げる彌九郎が可愛い。
そう。可愛いのは、俺じゃなく彌九郎の方だ。そう言いたいが、気恥ずかしく言葉に出せない。
名前を呼んだきり黙りこくった虎之助を、覗き込む様に少し近付く彌九郎を力任せに抱き締めた。

「…――っ」
「うわ…っ!なんやねん、急にっ!ちょ、おい、コラ!」

突然の虎之助の抱擁に、彌九郎がじたばたともがく。
随分と冷えている身体が、本当にいなくなるつもりだったのだと、虎之助に再認識させた。

(六年…)

彌九郎との歳の差は、天地がひっくり返っても、決して縮む事は無い。
どれ位の月日を示して、長旅と言うのか解らないけれど、彌九郎が仕事を終えて次に逢う時まで、その差を少しでも埋められる働きが出来れば良い。

(武士として…男として)

彌九郎の髪の香りが、虎之助の鼻先を掠める。
唇を小さく噛み締めて、虎之助は顔を上げた。

「俺は、あんたよりも大きくなる…っ、絶対に!」
「は…?」

間近で叫ぶ虎之助を、彌九郎が驚いたように見つめる。
額面通りに受け取ったのか、潜む気持ちに気付いたのか、彌九郎は虎之助の頭上を見上げると、腕の中でくすりと笑った。

「ふふ…まぁ、先は判らへんし。あんじょう気張りや」
「――!」

花が綻ぶような笑みに、虎之助の胸が鳴る。
掻き抱いた時に乱れたのか、彌九郎の髪の隙間から覗く白い額に視線が留まった。

「――…」

ほんの少しだけ背伸びをした虎之助の唇が、彌九郎の額に触れる。

一瞬の様な長くそうしていた様な額への口付け。

ゆっくりと離れ、彌九郎を伺い見る。
驚きも露な瞳を瞬かせていたが、虎之助と目が合うと、からかう様に笑みを浮かべた。

「…なんや。このごに及んで、デコに口付けかい」

つまりは―――

虎之助の頬に一気に朱が上る。
額に口付ける事すら、かなりの勇気を振り絞ったもので、しかし、正直な所、もう一度彌九郎の柔らかな唇に触れたいとは思うのも事実。

どうする?と挑む様な瞳に、うろたえそうになるが、馬鹿にされたまま別れたくない。
彌九郎の肩を掴んでいる手に力を入れ、引き寄せ唇が触れる瞬間―――彌九郎の手によって顔を押し返された。

「まだまだや」
「っ…何が!」

手を突っ張ったまま、彌九郎が目を細めて微笑む。

「俺が驚く位の、エエ男になり。そしたら考えたってやるわ」

自分が仕掛けろという目を向けてきた癖に。

勝手な事を言う彌九郎を虎之助は恨めしそうに睨んだ。

僅かに残っていた梅の花びらが風に乗って、枝から放れ中を舞う。
隆佐の彌九郎を呼ぶ声が聞こえて、虎之助は掴んでいた肩を解放した。
同時に虎之助の顔を押さえていた手が離れていく。
その手を無意識に捕えようとするのを堪え、手を握り締めた。

「彌九郎…」

聞きたい事、言いたい事は沢山あるが、どれも言葉にならない。
やはり、自分はまだまだ餓鬼で、彌九郎に認めてもらえるには程遠い。

名を呼んだきり、口を閉ざす虎之助を彌九郎は振り返り、春の陽射しの暖かさを持つ笑みを浮かべる。

「ほな。楽しみにしてますえ。虎之助はん」
「――っ」

冗談じみた台詞の中に、ほんの少しだけ真面目に取り合うような空気を感じ、虎之助は思わず背を正した。
ずっと胸に有った寂しさや戸惑いが、再会の待ち遠しさに塗り変えられてゆく――歩き始めた彌九郎に、虎之助は決意を込めた視線を送った。

「…絶対に、次に逢った時には一人前の武人になっててやる…っ」

ツンと痛む鼻や胸は、朝の冷たい空気を吸い込んだ所為だ。
見えなくなる彌九郎の背と、追い掛けるように散る花片を見つめ、虎之助は震えそうになる下唇を噛み締めた。






          *      *      *      *      *




草木が青々と繁る様は、誰の目にも夏の到来を感じさせる。

「暑いな…」

汗ばむ首筋をグイと乱暴に拭い、虎之助は抜けるように青い空を見上げた。
甲高い笛の音に似た声で鳴きながら、鳶が輪を描いている。

(――あの高さから見下ろしたら、どこまで見渡せるんだろう)

町が一望出来るのだろうか?
それとも、あの大きな湖の端まで見えるのだろうか?

ふと浮かんだ素朴な疑問の先に、一人の笑顔が浮かび、虎之助は翳した掌を懐に遣り、そっと溜め息を吐いた。

「今日も、文の遣いか…」

預かった秀吉宛の手紙を眺め、苦く笑う。
数ヶ月前、一人前の武人になる、などと大きな口を叩いたが、結局秀吉から申し付けられる事は、今までと特別変わりがない事ばかりで。
彌九郎を見送ってからも続く、似たような日常に、虎之助はあの数日間が埋没してしまうのでは…と、何度か不安を覚えた。

(でも、夢じゃない…)

今も相変わらず隆佐は出入りをしているし、あの猫達もすっかり大人の体つきだが、眠る時は前と同じように仲良く寄り添って眠っている。

(ただ、唯一感じる違和感は、あの後足を運んだ琵琶湖の景色に、あの時程感動を覚えないということ…)

「…――帰るか」

今一度空を仰ぎ、気持ちを切り替えるように呟く。
真上を飛んでいた鳶の姿は、そこにはもう見えなかった。






「ただ今戻りました」
「ん?おー、虎か」

手入れの行き届いた庭の中、手招きする秀吉に、虎之助は預かりの品を手渡した。

「遅くなりました」
「いや、ご苦労さん」

封緘を破り、秀吉が素早く書面に目を通す。
満足そうに顎を撫でる姿から、虎之助は、庭に植えられた梅の若木へと視線を移した。
初夏の風に、青い枝葉がさわりと揺れる。

(そう言えば、小西殿が梅を譲られるとか言われていたが…)

ひょっとしたら、目の前の若木がそうなのかもしれない。

「――なるほど。梅が根付いたか」

しなやかな枝を眺めていた虎之助の耳に、秀吉の呟きが聞こえた。
振り返れば、秀吉が書面に向かって小さく頷いている。

(…――内密な手紙、小西殿の梅、そして報告らしき手紙……)


初めて彌九郎と出会った日、秀吉や隆佐は何と言っていた?
彌九郎は、一体どんな顔をしていた?


「――っ」

彌九郎の言っていた、長旅の理由の一つを肌で感じ、虎之助は息を飲んだ。
情報は、商売道具。
彌九郎は、秀吉の為に他国に居るのだ。

「――虎。おみゃあ、槍と鉄砲の腕、誰にも負けんよう、今の内から磨いとかんとかんぞ」
「はっ!」

名を呼ばれ、背筋を正す。
彌九郎が情報を仕入れ、自分が戦で武攻を立てる――武人と商人では、上か下か立場は二つしか無いと思っていたが、もしもこの流れが上手くいけば、何と力強い事だろう。

(あの人との縁は、偶然じゃなかったんだ…)

彌九郎が残していった、胸の奥の埋火がほのかに暖かい。
再会の日まで、決して消える事の無い想いを、虎之助は宝物の様に包み込み頷いた。

「必ず、一番槍を!」






澄み切った青空に、二羽の鳶が輪を描く。
季節は芽吹きの春を過ぎ、成長と忍耐の夏を待つばかり。
庭には、彌九郎から感じた香りに似た芳香を放つ、笹百合が花の盛りを迎えていた。










終わり。


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いや〜。ようやっと終わりました〜。
ってか、ウチの清正、行長のこと大好き過ぎですよね(笑)

さて、今度は「新婚旅行は朝鮮です」の後時談話です。
ぶっちゃけ、エロだけを書こう大作戦(爆)

20070313   佐々木健&司岐望