瑪瑙の夢 清正×行長 |
震えながらも、触れてくれた。 怯えながらも、労ってくれた。 償い切れない過ちを犯した自分を、あの優しい人は赦してくれた。 本当は、それだけでもう満足するべきなのに。 どうして、こんなにも苦しいんだろう。 |
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空に散らばる星は、一体幾つあるのか。 心地良い夜風を頬に受けながら、清正は胡座の足を組み直し、瞳を細めた。 日中は木陰となるこの場所は、夜でも風が程よく抜けて過ごしやすい。 伸びをするように仰のけば、視線の先に夏の赤星がちかりと光った。 「…龍の心臓だ」 一際目立つ烈しい色は、天を昇る龍のそれに相応しい。 触れば灼けそうなその色を見つめ、清正は熱く締め付ける胸に手を添えた。 今この胸を開いたら、自分の心臓も同じくらい熱い色をしているだろうか。 もしその色を見たら、あの人は自分の想いの烈しさを解ってくれるだろうか。 「――…っ」 過日向き合った行長の最後の台詞が、芽吹き、伸び始めた清正の想いを妨げる。 ――キリシタンやねん、俺。 どこか苦みを含んだような、行長の小さな声。 「せやから…」と続けたけれど、その後の言葉はとうとう見つめ合うだけで音にはならなかった。 「…――見せれたら良いのに」 この窮屈な身体に、どれだけの想いが詰まっているのか。 別れた日から今日まで、自分が何を考えて過ごしてきたのか。 行長に話す事が出来たらいいのにと、清正は小さく唇を噛み締めた。 |
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未だ夏の色を濃く残し晴れ渡る空を眺める。 それでも陽の傾きが早くなっているという事は季節は秋へと進んでいるということなのだろう。 季節は誰に断りを入れる事無く変化する。 変化する情勢。 (俺は立ち止まったままや…) 織田の後継者を擁した秀吉は勝家や信孝との睨み合いを続けている。 毛利は動かない。 (このまま動かんといてぇな) そうすれば宇喜多は安泰だ。 秀吉は勢いに乗った。このまま一気に駆け抜けるであろう。 そう行長は感じる。 ぼんやりと空を眺める行長の目の前を一匹の蜻蛉が横切った。 「…何や、珍しいなぁ」 この時期蜻蛉は珍しくはないが、行長の目の前を横切った黒に黄色の斑紋の大きな蜻蛉は初夏から盛夏までの蜻蛉で、今は見られない。 (取り残されとるみたいや…) 蜻蛉か自分か――― アイツは前に進まなければならない。 自分に拘っていてはいけない。 自分はアイツの気持ちには応えられない。 応える気もない。 (俺には神さんが居るから) そう思うと同時に胸にチクリと痛みが走る。 行長はそれに気付きながらも、その事実を無視した。 「やくろー!」 行長の背後から突然声が掛かる。 聞き慣れた声に行長は振り替えると、宇喜多家の当主八郎が手を振りながら走って来ていた。 八郎は行長の名を呼びながら、ぶつかる様に行長の腰にしがみつく。 岡山に居た頃より、三寸以上身長が高くなった八郎の追突に行長の体は後ろに傾くが、腰を落として持ちこたえた。 「八郎様…随分大きゅうならはったんですから、そない勢いで来られては危のうございますわ」 「そうか?皆、八郎がぶつかってもビクともせぬぞ?」 皆、とは秀吉の将達の事である。 「あの猛者達と一緒にしないでくれ」と言わんばかりに行長は溜め息を吐く。 八郎は秀吉の下で作法や軍法等様々な事を教わっている。なかなか飲み込みも良く可愛がられていた。 今日も何を習ったとか、こんな事を聞いた等話し、行長は一つ一つ頷きながら話を聞く。 そんな中、八郎が行長に訊ねた。 「彌九郎、恋患いってなんだ?」 「は?」 八郎の口からそんな言葉が出るとは思わず、行長は呆気にとられる。 「秀吉様が言っておった。虎兄は恋患いなんだそうだ」 患いというからには病気なのだろう。と八郎はなついている虎兄こと、清正を心配し、表情を曇らせた。 「八郎が会う時は、いつもの虎兄に見えるが、虎兄は我慢する癖があるからな…大事になる前に、何か出来ぬものだろうか…」 きゅう、と小さな唇を噛み締め、どこか大人びた表情を見せる八郎は、直家が臥した時の事を思い出しているのかもしれない。 人を思いやる気持ちを持つ若い主に、行長は口元に微苦笑が浮かぶのを感じながら視線を合わせると、 「そない、大袈裟なもんやあらしまへん。普通にしてたら、いつの間にか治るもんですよ」 平気です、と付け足してみせたが、八郎は釈然としないのか、少しだけ小首を傾げて呟いた。 「…だが、虎兄は普通じゃないみたいだぞ?」 「―――」 八郎の台詞に、思わず息を飲む。 当事者故の思い込みかもしれないが、向けられた数々の激情は『恋患い』と括られるには熱すぎる存在感を秘めていたように思われて、行長は、木陰の下でまみえた清正の顔を思い出して瞳を揺らした。 「――…泣いたり、しはるんですか?」 八郎が更に心配そうな顔で聞き返す。 「虎兄が泣く事があるのか?恋患いとは泣く程辛いのか?」 思わず口にしてしまい、行長は怯んだ。 先から様子のおかしい行長に八郎は首を傾げる。 「彌九郎も…」 「お〜い!」 行長を心配する言葉に被さる大きな声が掛けられた。 声のした方向へ二人が目を向けると、正則が手を振りながら、二人の元に走り寄ってくる。 少し息を弾ませながらやってきた正則は八郎の頭を撫で、行長に対しては挨拶もそこそこに、本題を切り出した。 「虎之助を見んかったか?」 八郎はちょうど心配していた相手の名が出た事驚き、行長は名前を聞いただけで震え出しそうになる身体を叱咤して、平静を装う。 「虎兄がどうかしたのか?」 正則を見上げて、頭を撫でていた袖を八郎は掴んだ。 普段弟の様に可愛がっているせいもあって、八郎に遠慮の無い正則は心配そうに見上げる八郎を安心させる様に髪をぐしゃぐしゃと混ぜる。 「おう。ちょっとばかしな。仕事が終わると、どっかに行っちまうらしいんじゃ」 「えっ…?」 伏せがちだった顔を上げると、正則と目が合った。 「小西殿じゃったな。虎…加藤虎之助清正。知らんか?」 「あ…いや…居らんくなるんで?」 手掛かりの掴めない事に溜め息を吐いてぐしゃぐしゃにしていた八郎の頭を解放した。 「仕事が終わって、ふら〜っと居らんくなっての。明け方には帰ってくるんじゃ。最近は覇気もないしの…」 「恋患いだ!」 くしゃくしゃになった髪を手櫛で整えながら八郎が声を上げる。 「八郎様!」 「こいわずらい〜?」 「そうだ!秀吉様が言うておった。虎兄は恋患いに掛かってると!」 父とも慕う秀吉が言うのだから、間違いない。と胸を張る八郎に正則も、そうか。と頷き、頭を掻いた。 「…ところで、こいわずらいとは何じゃ?」 「八郎も知らん」 それじゃあ。と正則は行長に視線をやるが、 「彌九郎もよう解らんようだ」 先から返事の遅い行長は解らないのだろうと解釈した八郎が遮る。 病が解らなければ看病のしようもない。と正則は思案し、閃いた。 「紀之介じゃ!紀之介なら知っとるはずじゃ!行くぞ八郎!」 言うが早いか二人は吉継が居るであろう場所を目指し走っていった。 行長は置いてきぼりをくらった様な気がしたが、何とも居心地の悪さから解放され、深く溜め息を吐く。 そして薄く姿を見せる月を睨み付けた。 「あのアホ…何やっとんのや…」 |
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夏の陽射しが陰った叢の中、秋を思わせる声で鳴いていた虫が、人気に気付いたのかそっと息をひそめる。 その一瞬の静けさの合間に、清正は誰かに呼ばれた気がして足を止めた。 「…――」 ちらと視線を寄越した後ろには、見知った顔は見当たらない。 正則に日中散々付け回されていたせいで、まだ耳の奥に声が残っているのかもしれない。 清正は軽く頭を振ると、小さく息をついて歩き出した。 (…重症だな) 自然に振る舞っていたつもりでも、溜め息の数は増すばかり。 行き先は知らずとも、この外出に気付いている者も、屋敷には何人かいるに違いない。 「本当に、どうかしてる」 自嘲の笑みを浮かべながら、歩き慣れた道を進む。 人と擦れ違う度、誰かを呼ぶ声を聞く度、無意識の内に一人の面影を探している自分を知っている。 夕日に透けた髪や、白く艶やかな肌の色に、もう一度触れてみたいと願う自分を知っている。 「――痛ぇ…」 心臓をぎゅうと鷲掴まれるような感覚に、清正は深い溜め息をついて眉を寄せた。 夜中、屋敷を抜け出す事を黙認してくれていた秀吉からも、もうそろそろ次第を話せと詰め寄られる時期かもしれない。 「…潮時か」 自分の独りよがりで、行長を追い詰める事になるのだけは避けたいと、清正は目前に迫った目的の場所を見据えた。 (ここに来るのは、今日を最後にしよう…) 約束の無い――待ち人の来るあての無い、逢瀬のままごと。 あの日この場所で蟠りを無くすことが出来て、自分はどんなに嬉しかったかわからない。 「…――女々しいな」 いつの間にか灰味が掛かった空に、今日は星が見えないのだと残念に思う。 少し湿り気を帯びた空気に溜め息を零し、清正は何気ない仕種で小路を振り返った。 「―――」 微かに砂利を踏む音が、息を飲む清正の耳に大きく響く。 深い溜め息を零した人物が、射抜くような視線でこちらを見つめている。 「――何しとんねん、こないな所で」 「――…っ!」 目を見開き、言葉が出ない清正に行長は苛立つ。 「何や。口もきけへんくなったん?」 「っ…何で、アンタが此処に?」 俺の質問に答えてへんやん。と再び深い溜め息を吐いて清正を見据える。 「どこぞのアホが恋患いにかかったとかで、夜な夜などっかほっつき歩いてるんやと…顔拝んだろ思うて、此処に来たまでや」 敢えて清正の事だとは言わないが、誰を指しているかなんて分かりきった事だ。 行長の視線から逃れる様に清正は下を向く。 「お前は、何で此処に居るん?」 逃げるな。と言外に含み行長は清正との距離を一歩、一歩と縮めていく。 あと一歩で手が届く距離になり、漸く清正は口を開いた。 「…此処に来れば、アンタに…会えるような気がした」 絞り出される声に清正の深い想いが滲む。 「阿呆か!?」 「っ!」 俯く清正の胸ぐらを掴み、鼻先が触れそうな近さで無理やり視線を合わせた。 行長の瞳には、うっすら涙が浮かんでいる。 「お前は!…加藤虎之助清正は、こないな所で立ち止まってたらアカンのや!俺なんかに拘って、これからの人生棒に振る気か!?」 行長の訴えは悲痛な叫びに変わり、瞳から一筋の涙が零れた。 涙に誘われたか、灰色の空から雨が降り注ぐ。 一気に強くなる雨脚に清正は雨から守る様に行長を抱き締めた。 「アンタだから拘るんだ!俺の想いはアンタを追い詰める。何度も諦めようとした!…だけど、その度に胸が痛いんだ。どうしたって、彌九郎が好きなんだよ!」 胸に有った言葉をぶつけ吐き出す。 腕の中の愛しい存在をかき抱き、清正の瞳からも涙が零れた。 「…アンタじゃなきゃ、意味ねぇよ…っ」 「――、っ」 獣の唸り声に似た慟哭が、行長の背に降り落ちる。 どうすれば良いのか判らないと言った烈しい抱擁に、行長の肌がぞくりと粟立った。 (…アカン…嬉しいなんて、思ったらアカン…っ) 清正の腕は、過去の色恋が褪せて見える程の力強さを持っている。 その鮮烈な嵐が自分を掠いそうになり、行長は思わず清正の襟元を握りしめた。 「お前、阿呆や…」 秀吉も宇喜多も、性別も信じる神の名も関係ないと言う清正の言葉は、きっと真実だ。 他人が痛いくらいに真っすぐな信念は、この男の性分なのかもしれない。 「ホンマ、阿呆や…」 雨脚よりも烈しい清正の鼓動に、灰色の空を眺めた。 |
―――この抱擁が夢で降り注ぐ雨に溶けてしまえば |
終わり |
あれ? 予定とずれてきた。 20070906 佐々木健&司岐望 |