月長石の雫 清正×行長 |
暑いし。 煩いし。 忙しいし。 少しの休憩時間に大きな木の木陰に座り込んだ大谷紀之介吉継は恨めしそうに空を眺めた。 ギラギラと容赦なく照りつける太陽。 短い命に全身全霊を賭けて鳴き叫ぶ蝉。 息吐く暇も無い程の情勢の変化。 その中で聞こえてくる人々の喧騒。 (またやってるんだ…) 溜め息が出る。 多分、いや、絶対あれは清正が誰かと喧嘩しているのだろう。 (毎日飽きないなぁ…) ここ最近の清正は荒れている。 毎日のように誰かに喧嘩を売って歩いているようだ。 二十日程前、泥まみれになって帰ってきた時から。 誰に訳を聞かれても答えようとせず、誰も側に寄せ付けようとしない。 それが更に酷くなったのは、清洲会議での長浜の件を聞いてからだった。 (長浜にそれほどの思い入れがあったのかな?) 好きな子がいたとか? (いや、違うな…) 清正が宇喜多の使者として現れた行長の事を見る目を知っている。 清正が行長への五年も前の恋心を未だに持ち続けているのには少々驚いたが、何だか妙に納得してしまった。 だが、肝心の行長は自分達―――秀吉の子飼い衆を特に避けているのが判る。 宇喜多から二百石で士分に取り立てられ、更には秀吉からも同じ二百石で召し抱えられた行長。 (秀吉様も酷な事をする…) 行長が小西隆佐の息子だという事は知れている事実で、宇喜多にとってそれは頼みの綱とも間者とも言える存在だ。 そんな行長を直ぐ様召し抱えるというのは、宇喜多が行長を疑う要因とも言える。 これは行長に課せられた秀吉からの課題といったところだ。 (期待に応えられるだけの器をもつかどうか…) そこで先ず行長がとった行動が秀吉に近い人物達との交流を持たない事。 それが清正には理解が出来て居ないようだ。 (やっぱり理由はこれかな?) まだありそうだけど。 三日後には信長の葬儀がある。 このまま放っておく訳にはいかないから、何とかしますか。 照りつける太陽に、煩い蝉の声、いよいよ大きくなってきた喧騒に吉継は腰を上げ、深い溜め息を吐き歩き出した。 頬に感じる風が、ひどく生温い。 何時の間に、これ程集まったのか。 遠巻きながらも、輪を描くように群れを成した野次馬達は、じりじりと灼ける肌と汗を拭いながら、掴み合う若者達を好奇の眼差しで見つめた。 最近では日常茶飯事となった、大柄で上背のあるこの二人の喧嘩は、いつも一方的な難癖から始まるように思えたが、仕掛けられた方も差程気の長い性格ではないらしく、結果と して口喧嘩だけで終わることはなかった。 ――今日は一体、どちらが勝つのか。 賭、とまでは行かないが、野次馬らしい台詞が、さざめきの中にちらほらと混じる。 立見をする幾人かが、手拭いや袖口で再び汗を拭う。 夏の太陽は一番高い所を指していたが、その場を立ち去るものは少ない。 体格の所為だけとは言えない気迫と体術に、目を奪われていたその時、 「うわっ!」 輪の中心に近い辺りから、小さな悲鳴と共に人熱れが揺れ動いた。 「う、ぐ……」 投げ飛ばされた男が、背中から叩き付けられ、獣のような唸り声を上げる。 「この、…ぅ」 起き上がろうとする気持ちに身体が追い付かないのか、男は自分の足元で荒い息を吐く影を見上げた。 「糞、が…ぁっ」 炎天下、仰向く男の汗は、見事に剃った頭上からも滝のように吹き出している。 微かに呻いた男の周りに――乾いた土埃が、微かに立ち上がった。 「……ちっ」 大の字に広がる手足を見下ろし、夏の陰影を濃く落とした唇が、痛みに歪む。 「どっちがだ…クソっ」 鉄臭い唾液に、胸やけがしそうだ。 砂塗れの肩口で口元を乱暴に拭うと、背後の木陰から冷ややかな声音が自分の名を呼ぶのが聞こえた。 「――自分が何をしてるか、判ってるの、虎之助」 「…――」 太陽を背に、表情に暗い影を落とした男――加藤虎之助清正が、緩慢な動きで振り返る。 耳障りな蝉の声を背負って佇むのが、大谷吉継であることは、名を呼ばれた時から分かってはいた。 「―――」 相変わらずの…夏の盛りが似合わない、白く女性めいた顔に、何故だか無性に苛々した気持ちになる。 清正は静かに睨み据えると、癇に触る全てから背を向けるように踵を返した。 「…下らねぇ…」 足元に昏倒する正則――福島市松正則を見遣り、小さく呟く。 互いの虫の居所が悪かった、としか言えない喧嘩に、理由なぞあったものじゃない。 「…紀ぃ兄には、関係ないだろ」 どうせ責を負うのは自分だと、一瞥して立ち去ろうとする清正の腕を、吉継の少し冷たい指がするりと掴んだ。 「紀――」 「――もう一度…言ってみなよっ」 「ぐ、うっ!」 ズシッと重い痛みが、鳩尾に響く。 独楽のようにくるりと回った清正の体が、先程まで吉継が居た木に勢いよくぶつかった。 「ぐっ!う…っ、げほっ!」 不意打ちの強打に、ずるずると座り込む。 余程の衝撃だったのか、季節を間違えたかのように蝉の声はぴたりと止み、代わりに吉継の冷えた声が清正に降り落ちた。 「……関係ないわけ、無いでしょ…?虎之助が喧嘩する度に、信長様の仇を討ち、今や大身である秀吉様は、子飼いすらも御せないって思われるんだよ。しかも、失敗が許されない三日後を控えたこの大事な時にっ!」 「…――っ」 吉継は、多少説明臭いな。と思いながら言い聞かせる為にわざわざ口に出す。 秀吉の名が出た事で、清正はうなだれ、大人しくなった。 これで清正は逃げる事は無いだろうと、吉継は集まって来ていた野次馬達に目を向ける。 喧嘩の行方を囃し立てながら見守っていた野次馬達は、吉継の冷たい視線に潮が退く様に散って行った。 残ったのは、うなだれる清正と、意識を失って仰向けに倒れている正則、夏の暑さを感じさせない吉継と―――清正と正則の喧嘩に巻き込まれたらしく、左頬を押さえた片桐助作且元の四人だった。 「助さん?」 「止めに入ったら、この様だった…」 且元が通り掛った時には既に二人は掴みあっていて、殴り合いになるのも時間の問題で、止めに入った所を清正に突き飛ばされ、体勢を立て直した所を正則の振り上げた拳が見事に当たり、そうこうしている間に野次馬の波に飲まれていた。 「災難だったねぇ…そんな助さんには申し訳ないけど、市松の事よろしく」 「あ…ああ。…しかし、大丈夫か?」 且元は未だうなだれたまま動こうとしない清正に目を向ける。 「多分大丈夫だよ」 それよりも、起きた正則止めるのも大変だよ。と吉継は笑い、くるりと清正に向いた。 「虎之助、ちょっとおいで」 反論を許さないといった声音に渋々ながら清正は立ち上がり、吉継の後に付いて行く。 「よくやるなぁ…」 遠ざかる二人の背に、様子を窺っていた蝉達が鳴き始める。 託された大仕事を眺め遣り、且元は鈍く痛む頬に手を添えて溜息を零した。 一体、どこまでついて行けば良いのか。 黙したまま先を行く吉継は、正則達と別れてから一度も口を開かない。 屋敷に戻るのかと思いきや、吉継が向かうのは町の外れで、慣れた足取りで人通りの少ない路地を抜けるのを、清正は鬱々とした気持ちで見つめた。 (…紀ぃ兄が言いたいことは、分かっている…) 織田信長と云う巨星の仇を討ち、秀吉は大義を背負って動き回っている。 三日後の葬儀が恙無く終われば、秀吉を軽んじて来た面々も、まずは黙らざるをえない事も、理解はしている。 (大事な時だと…俺だって、分かってはいるんだ) 軽率な諍いが秀吉の足元を掬う危険があると、他人の口から面と向かって言われ、清正は頬を張られた様な気持ちになっていた。 しかし―― (だったら、この気持ちは、どこにぶつければ良いんだよっ!!) 擦り傷が出来た掌を、指が白くなるまで握りしめる。 この両手があの細い腕を掴み、組み伏せ、無理矢理繋ぎ留めたのかと思うと、例え自分の腕だとしても、へし折ってしまいたくなる。 (もう…沢山だ…っ) 先を歩く吉継の白い首筋が、責めるでもなく、ただ耐えるような瞳で自分を見つめた、行長の白い顔を思い起こさせる。 「――…っ」 噛み締めた唇から、微かに血の味が滲み出した。 「…――着いたよ」 苦渋と後悔に満ちた清正を、吉継が静かな面持ちで振り返る。 「ここなら、誰も来ないから――少し話そう、虎之助」 道の右手に立つ寂れた山門に向かって、蜻蛉が一匹、先導するように銀の羽根を煌めかせて飛んで行く。 「―――」 清正の応えを待たずに、吉継は細い階段を登り始めた。 「虎之助に自虐的趣味があるとは思わなかったな」 人気の無い社の階段に座りこんだ吉継が話し出す。 「自虐的趣味…?」 騒動を起こした事への批判が降り掛ると思っていた清正は吉継の言葉の意味が理解出来ずに反復した。 「自身を許せないって顔してるよ」 「…」 見事な指摘に清正は黙り込む。 「普段だったら、とことんやって自分で答えを導くのが良いとは思うんだけど…今はそんな悠長な事を言ってる暇はないから、単刀直入に聞かせてもらう。小西殿と何かあった? 」 吉継の口から出てくるとは思ってもみなかった名前と的確な指摘に清正は目を見開き、体が硬直した。 (何故紀ぃ兄が…) 「あ、アイツが…何か言ったのか?」 清正が行長と接触したかどうかは知らなかったが、清正の反応に吉継は確信する。 (小西殿に手酷くあしらわれたか…それだけではないかな?) 「まさか、小西殿は私達を避けてるしね」 吉継は膝に立てた肘で頬杖をつき、動揺を隠せない清正を見遣った。 清正の目は焦点が定まらず全身は小刻に震えている。 混乱する頭の中で清正は吉継の言った言葉を理解しようと必死になった。 (彌九郎は紀ぃ兄も避けている…避けて?機会が無かった訳ではなく、彌九郎は俺達を避けていた?) 秀吉に召し抱えられてからも宇喜多勢と一緒にいたのは――― 「ねぇ、虎之助。小西殿は非常に不安定な地位にいるよね?」 理解出来てる?と問い正す様な吉継の声が夏を思わせない涼しげな社に響く。 吉継を見つめた清正の唇が、喘ぐように悸いた。 ―――だるい…。 人目につかぬよう、民家の裏を通りすぎようとした行長は、照り付ける太陽を恨めしく見遣る事でその歩みを止めた。 「…――っ」 沸き上がる不快感に、深く息をつく。 (なんや、気持ちわる…) 冷や汗が背を伝うのは、先程までの緊張感が残っている所為だ。 「――どないな顔してたんやろ、俺…」 宇喜多家の使いとして、今までも何度か秀吉と面会をしてきたが、あれほど居心地の悪さを感じたことは、正直無かったかもしれない。 「あかん…」 対話中に出た一人の男の名に、無意識に強張った自分を思い出し、行長は髪を掻き上げ、強く目を閉じた。 秀吉は見逃してくれたようだったが、ちらと寄越す視線には、非情さと好奇心が秘められているようで、一瞬血の気が引いたのを覚えている。 「はぁ……」 軽い眩暈を振り払うように、二、三度頭を振るが、身体の気怠さは抜けきらない。 (親父殿のところ行くん、どないしよ…――) 秀吉と面会した日、都合がつけば実家を――正確には、父・隆佐を――訪れるのが習慣づ いていたが、今日の有様では『ふらりと実家の様子を覗きに来た息子』を演じる事は難しいに違いない。 「今日は、やめとこかな…」 地面から立ち上る、ゆらゆらとした熱気が行長の目を奪う。 この熱の揺らぎに似たものを、自分はごく最近どこかで見た気がする。 (何やろ…湯気って言うよりも、水ん中みたいなぼんやりしたような――) 「あ…」 思わず、小さく漏らした声を掌で隠す。 思い当たった世界が、涙で滲んだ視界に似ている事に気付き、行長はそれがいつの事なのかを思い出して戦いた。 「――っ!」 今でも身体中に残っている、熱い掌の感触。 痛い位の困惑や、怒りや、悲しみ――恋情を、躯の真奥に叩き付けられたことも、忘れてはいない。 (いや――あの痛みは、忘れたらアカンのや…) 「ふ…――」 唇を噛み締め、眩む身体を叱咤して、ふら、と歩み出す。 あの日――清正に会って無理矢理身体を開かされた夜から、殆んど睡眠をとっておらず、食事も碌に摂っていない。 忙しさにいつか負けてしまう恐れは十二分にあったが、体が受け付けないのだから仕方が無い。 (解ってる、こんなんじゃアカンて…まだやらなあかん事は、ようさんあんねや…) 今、ここで膝を折ることは許されない。 ここまで来るのに諦めたものや、切り捨てたものに、悔いを感じる事だけはしてはいけない。 (でも――) 十三夜の月に照らされた、あの清正の顔だけは別だと行長は思ってしまう。 「――…っ」 陽炎が、再び視界を滲ませる。 揺らめく先に浮かびあがる清正の幻影に、行長は小さく呟いた。 「虎之助に嫌われるんが…こないに辛いなんて思わへんかった…」 『小西殿が何故宇喜多から離れずにいるか。考えた事ある?』 『…向こうのが居心地が良いんじゃないか?』 『宇喜多を秀吉様から離さない為だよ』 『しかし!秀吉様の元に…』 『宇喜多を継げる者は一人じゃない』 『…!?』 『まあ、これは極論だけどね…宇喜多は家と土地、それらを守る為なら何でも切り捨てる事が出来る……小西殿が私達を避けてる理由。落ち着いて考えてみて。虎之助なら解る筈だよ』 それだけ言うと、手をひらひらと振り吉継は元来た道を戻っていった。 「解らねぇ…」 正則程短絡的ではないと思っている清正だったが、行長に関しては感情的になってしまう分冷静な判断がつなかい。 人が多い通りを歩きたくなくて、民家の裏手をのろのろと歩いていると、前方に人が居る事に気が付き、気だるげな仕草で顔を上げると、清正は目を疑った。 「彌九郎…」 打ち水も効かない照り返し中、ゆっくりとした足取りで近づいてくる青年に、清正の体が震える。 (そんな…どんな顔したら良いんだ) 後悔からくる胸の痛みが、この場から逃げ出したい気持ちを後押しするのに、逢いたくて仕方がなかった心が足を地に引き留める。 行長の視線はこちらを向いていたが、まだ自分に気付いていないのかもしれない。 咄嗟に隠れる事を考えたが、生憎とどこにも陰は無く、清正は立ち尽くしたまま固唾を飲んだ。 (――俺に気付いて、あいつが逃げてくれれば良いのに…) 思い付いた狡い考えに縋りながら、行長の歩みを見つめる。 爪で傷つけた掌が、滲み出した汗で小さく痛んだ時、行長の緩やかな動きが静かに止まった。 「――っ」 自分の姿に、気付いたのかもしれない。 掌を翳し、何かを見遣るような仕種を見せた行長に、清正は泣きたい気持ちで一杯になった。 吉継の言っていた事がわからない今は、行長と話せる事は何も無い。 行長に対する疑問も、後悔も、謝罪も、どんなにしたくたって自分が解らないままでは出来やしない。 「――…くっ」 互いの表情が読み取れ無い距離を利用して、行長に背を向けるなら今しかない。 踵を返そうとした清正の足元に、微かな土埃が立つ。 だが、その足はそれ以上その場からもと来た道に向かって離れる事は無く―― 「彌九郎っ!?」 叫び駆け出した先は、逃げたかった人物の許だった。 「彌九郎!」 崩れるように膝を折る行長の身体が、道の隅に黒い影を作る。 顔から血の気が引く音を、清正は産まれて始めて聞いた。 「彌九郎!!」 傍まで駆け寄り、玉のような汗を滲ませる額や顔色の青さに動揺する。 医者では無いから解らないが、少しでも涼しい場所に移った方が良い事だけは理解できた。 (だが、どこに――) 吉継曰く、行長にとって自分の存在が鬼門ならば、一緒に民家や商家に入り込むのは善しとはならないかもしれない。 清正は民家の裏木戸を打ち破りたい気を押さえ、手ぬぐいで汗を拭うと、行長の身体を静かに抱き抱えた。 先程吉継と居た場所なら、木陰も有り人目にもつかない。 「――…っ」 ぐったりと重い行長の身体が、過日の出来事を思わせる。 汗で張り付いた前髪を見つめ、清正は唇を噛み締めた。 (彌九郎…っ) 微かに震えた瞼は、いつ開くか解らない。 揺らさぬよう気をつけながら、清正はそっと足を踏み出した。 浅い呼吸を繰り返す行長をゆっくりと下に下ろす。 全く目を覚ます気配を見せない行長に、清正は不安が募る。 (彌九郎…) 蒼白となっている顔に汗で張り付く髪を指でそっと払った。 指に触れた髪の柔らかさが、初めて触れた時の事を思い出させる。 だが、あの日とは全く状況が変わってしまっていた。 (壊したのは俺だ…) 『小西殿が私達を避けてる理由。落ち着いて考えてみて。虎之助なら解る筈だよ』 吉継の言葉が脳裏に蘇り、清正は頭を抱え小さく呻く。 (それを解っていれば、こんな事にはなっていなかったんだろうな……今更解ったところで…全ては遅い…) 事態を好転させるどころか、絶望的な考えに陥ってしまい、清正は泣きたくなった。 横たわる行長は苦悶の表情を浮かべている。 (どうしたら…) 此処に来るまでの途中に井戸があった事を思い出し、未だ行長の額に滲む汗を見遣り、清正は立ちあがった。 駆け足で井戸まで向かうと、自身が先の喧嘩で砂まみれになっている事に気が付く。 清正は水を汲むと頭から被った。 冷えた水が混乱する頭を冷静にしてくれる様な気がする。 (彌九郎が俺を避ける理由…) 『アカン…っ、お前だけは、アカンのや!』 あの夜の行長の叫び――― 『宇喜多は家と土地、それらを守る為なら何でも切り捨てる事が出来る』 吉継の言う宇喜多の動向――― 今は亡き梟雄、宇喜多直家。 それを支えてきた家臣団。 秀吉の命を受け宇喜多との接触を計った行長。 そこで清正は気が付く。 (俺が宇喜多の家臣だったら…彌九郎程怪しい人物はいない) もしかしたら、行長は間者として疑われている――― 桶に張った水を抱え、清正は行長の居る社へと急いだ。 五年前、隆佐が秀吉の為に枝分けした『梅』が『行長』であった事は、清正も気付いてい た。 当初、宇喜多の地でも行長の役割は商人としての域を出ないものだったに違いない。 (あいつは、長浜の町並みや船の話を、あんなに楽しそうにしていた…) だからこそ、商人の立場に嫌気が差したとは考えられない。 多分――その立場を捨てさせる程の出来事が起きて、船が潮の流れに乗るように、嫡流である八郎の傅役にまで一息に昇りつめたのだろう。 (…見る者が見れば、成るには随分と短い年月だ) 「――…っ、は、ぁ」 木陰に投げ出された行長の足を見つめ、清正の歩が緩む。 起こさぬよう静かに近付くと、幾分血色の戻った行長の顔色に、少しだけ肩の力が抜けた気がした。 「…よかった」 規則正しく上下する薄い胸に、安堵の吐息が零れる。 清正は手ぬぐいを固く絞ると、汗で湿った額や顔を優しく拭った。 (相当の心労を抱えていたのかもしれない…) 冷たさが心地良いのか、穏やかな寝顔を見せる行長に、清正の胸が痛む。 行長の心中や立場も考えず、自分の気持ちだけを押し付けて無理強いをさせてしまった事が、暗く重くのしかかる。 「彌九郎…」 心から謝ったら、許してもらえるだろうか。 それとも、謝罪すら受け取られず、憎まれるだろうか。 (――俺は、卑怯だ…) 絹糸のような髪を掬い、あらわになった額に手を添える。 どんなに罵倒されても、あの夜この身体を抱いた事だけは、無かった事にされたくないと思う気持ちが、心の隅にこびりついて離れない。 「彌九郎…」 ほんのりと赤みが差した白い頬や、首筋から香る甘い香りがまるで果物か何かを思わせる。 産毛の生えた桃のような頬を親指でなぞり、清正は薄く開いた唇の輪郭に指を這わせた。 「ん……」 「――…っ」 微かに震えた瞼に、弾かれたように手を引く。 起こしてしまったかもしれない。 「すまん…気分はどうだ」 経緯を思い浮かべながら見下ろすと、行長の表情の中に痛みを堪えるようなものが微かに混じった。 「おい、どうした――」 「勘忍な…」 「――っ」 あの晩を思わせる突然の台詞に、清正の動きがぴくりと止まる。 瞠目したまま息を詰める清正に向かって、行長の指が伸ばされる。 「悪いのは俺やけど…神さんも、イケズやな…こないな試練、もう沢山や…」 伸ばされた手を抱き締める様に両手で包み込むと、清正は叫ぶように行長の謝罪を否定した。 「お前は悪くない!…悪いのは、俺だ…謝って済む事ではないが…」 「っ!と、虎之助!?」 手を取られ、清正の響き渡る声で行長の意識が完全に目覚める。 幻影だと思った清正が本物である事に行長の体が堅くなり、震え始めた。 「彌九郎?」 震え始めた行長を覗き込み、包んでいた手を緩めると、行長はとっさに手を引き自身を抱き締める。 「な…何で居るん?…此処は…何で俺震えて?」 自分が置かれた現状、無意識に身体が清正に対して脅えている事が理解出来ない行長は混乱の極みに陥り目が忙しなく動く。 (あの時見た幻影は本物?民家の裏を歩いてて…それから?一体何が?) 「…彌九郎…」 行長の尋常でない様子に、どうして良いか解らず、清正はうつ向き、意を決した。 両手を地に着き、地面に額が着きそうな位頭を下げる。 「すまない!すまなかった!」 「と…虎之助はん!?」 目の前で土下座をする清正に漸く焦点が合い、その行動に慌てた。 「謝って済むとは思っていない!だが…」 「ちょっ!何してはるん!あ、頭上げてぇな」 額を地に擦りつける様にひたすら謝る清正に行長は肩を持って頭を上げさせ様と試みるが、手が震えて清正に触れる事を身体が拒む。 「っ…何でや?」 言うことを利かない身体に行長は自身の手を見遣った。 その間も清正は謝り続ける。 全ては自分の理解が足りなかったと――― 「――…っ!」 頭を垂れる清正の頭上と自分の掌を見つめ、行長は小さく唇を噛み締めた。 「…何でやねん、この…アホっ!」 「!!」 行長の一言に、清正の肩が揺れる。 声の鋭さから、どんな責めも受けようと、一層深く額を地につけた――その時。 「――っ!!」 ぴしゃり、と頭上から聞こえた頬を打つ音に、清正が驚いたように顔を上げた。 「な…彌九郎っ!?」 目の前には、両手で自分の頬を張る行長がいた。 「何して…っ!」 「つ、ぅ…お前もやっ!!」 「――っ!!」 自身の頬を赤く腫らした行長が、容赦無い勢いで清正の頬を挟み込む。 再び響いた、馬にくれる鞭に似た音の後、清正は呆然と行長の顔を見上げた。 頬が、じんじんと熱く痛みだす。 「……彌九郎…」 毒気が抜かれたように名を呼べば、行長の表情にぎこちない苦笑いが浮かび上がった。 「あいこや」 「―――」 笑みを浮かべる行長の指は、ほんの微かだがまだ震えている。 虚勢を張ったものの、それ以上どうすることも出来ないのか、固く唇を引き結ぶ行長の指を、清正は静かに包み込んだ。 「――っ!」 砂に塗れた手の感触が組み敷いたあの夜と重なるのか、行長が小さく息を詰める。 しかし、それでもそれ以上の拒絶を見せない行長に、清正は胸の奥が熱くなり瞳を閉じた。 「彌九郎…っ」 懺悔に似た仕草と、尊い者の名を呼ぶような響きに、行長が指先を滑らせる。 「泣くな、男やろ」 何が擦れ違いの原因だったか。 清正が察しをつけている今、これはもう、事を話すべきなのかもしれない。 清正の流す涙を行長の親指が拭うと、目近くを触れられたせいか、清正の目蓋が震えた。 泣きながら、それでも手を離さない清正が、幼子が迷子にならぬ様、親の手にすがり付く姿と重なり、自然と笑みが零れる。 (図体だけでかくなったみたいや) 「…ホンマ、餓鬼やなぁ」 子供扱いされた事に一瞬腹を立てたが、行長の表情には嘲りはなく、慈愛の笑みが浮かんでいるのを見て、反論の言葉を飲み込んだ。 清正がずっと待ち望んでいた笑顔がある。 (この笑み…もう、見れないと思ってた…) 涙は止まったものの、自分の手を掴んだまま、ポカンとする清正に行長の笑みは更に深くなり、 「あんなぁ。虎之助はん。手ぇ掴むんはエエけど、せめて砂は払い」 ついに吹き出した。 「!!すまん!」 行長の指摘に慌てて手を離し、着物で手を払う。 その行動が更に笑いを呼び起こすのか、行長は腹を抱えて笑った。 自分の行動が笑われているのだが、不思議と怒りは感じず、行長が笑ってくれる事に清正は嬉しくなる。 ひとしきり笑った後、行長は笑う事により出た涙を拭い、背を正して清正を真っ直ぐ見つめた。 「あ〜…笑い過ぎたわ。…なぁ。俺の話…聞いてくれる?」 ―――何が擦れ違いの原因だったのか。 ―――清正が察しをつけている今、事を話すべきなのかもしれない。 行長は五年前、あの日から今日までの事を語りだす。 「俺でも想像付かん位、色々あったんよ…」 遠くを見る様に話す行長を清正は黙って聞いていた。 これから、自分達はどうするべきなのか――― 行長の優しさを噛み締めながら、二度と擦れ違わないように、清正は行長の言葉を受け止める。 あの日、疵をつけてしまった思い出の器の替わりに、これからの出来事を再び満たす事が出来る喜びを、清正は感じていた。 終わり。 |
琥珀の思い出が悲しい状態で終わってしまったので、救済措置。 キヨコニラブラブ計画にはまだ掛かりそうです。 20070706 佐々木健&司岐望 |